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7月6日(土) [はじめての親鸞(その190)]

 「あなた」の口から出る「なむあみだぶつ」の声に救われる。
 ここがルターと違うところです。ルターの場合、救いは直接「神から」与えられます。その間に教会も聖職者も介在しません。教会や聖職者が神の代理として救いを与えるとされてきたのは、神の恩寵を簒奪しているのです。ルターの宗教改革はそれに対するプロテストでした。
 親鸞の場合も、救いは「阿弥陀仏から」与えられますが、「あなた」を窓口として与えられるのです。「あなた」という窓口がなければ、弥陀の本願が届きません。この違いをさらにはっきりさせるために、もう一度「なむあみだぶつ」のリレーについて考えたいと思います。
 親鸞は法然を窓口として「なむあみだぶつ」が届けられ、法然は善導を窓口として、善導は釈尊を窓口として、そして釈尊は阿弥陀仏を窓口として伝えられてきたのでした。ルターの場合でしたら「すべては神から」でよしですが、親鸞の場合、窓口をずっと遡って阿弥陀仏に行き着くのはいいとして、阿弥陀仏も窓口だとしますと、「なむあみだぶつ」はどこから来たのかということになります。
 いや、阿弥陀仏はただの窓口ではなく「なむあみだぶつ」の生みの親だと言われるかもしれません。確かに「弥陀の本願」と言うからには「すべては阿弥陀仏から」と考えていいようにも思います。しかし、阿弥陀仏は本願の生みの親だとしても、一切衆生の生みの親ではありません。そこが万物の創造主である神と違うところです。

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