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7月7日(日) [はじめての親鸞(その191)]

 としますと、阿弥陀仏以前にもいたはずの衆生は弥陀の本願からはずれてしまうのでしょうか。阿弥陀仏以前と以後とで歴史が裁断され、以後のものたちは弥陀の本願に救われるが、以前のものたちは運悪く弥陀の本願に遇うことができなかったということになるのでしょうか。それでは一切衆生を救いたいという弥陀の本願に反します。やはり阿弥陀仏以前から弥陀の本願は連綿とリレーされてきたと考えざるを得ません。いや、阿弥陀仏には以前も以後もないのです。
 「なむあみだぶつ」はあるとき無から創造されたのではありません。「なむあみだぶつ」は悠久の時間とともにあるのです。
 「なむあみだぶつ」のリレーには、はじめがありません。悠久の過去から悠久の未来へとリレーされていくのです。これは大事なことをぼくらに教えてくれます。一方に阿弥陀仏という救い手がいて、他方に衆生が救いを待っているという構造ではないということです。この構造でしたら、すべては阿弥陀仏にはじまり阿弥陀仏におわると言えるでしょう。キリスト教で、すべて神にはじまり、神におわると言われるように。
 しかし「なむあみだぶつ」にははじめもおわりもありません。ぼくはあるとき「あなた」から「なむあみだぶつ」を受け取ります。そしてまたあるとき、ぼくが誰かの「あなた」となって「なむあみだぶつ」を受け渡す。こちらに救う人がいて、あちらに救われる人がいるのではありません。みんなが「なむあみだぶつ」をリレーしながら救われていく。これが親鸞の同朋、同行の思想です。一方に僧がいて、他方の俗に「なむあみだぶつ」を手渡すのではなく、誰もが誰もに「なむあみだぶつ」を手渡していく。

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