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はじめての親鸞(その194) ブログトップ

7月10日(水) [はじめての親鸞(その194)]

 念仏は愚かな凡夫のために用意された特別なコースであるかのように言われることがあります。学校で学力の低い生徒たちを集めて特別のクラスを作るように、「かひなきひと」のために「念仏コース」が作られたのだと。
 しかしそれは大変な誤解ではないでしょうか。
 愚かな凡夫のための道は、一切衆生に通じる道であり、それこそ仏教の大道なのです。「正信偈」に「如来、世に興出したもう所以は、唯、弥陀本願海を説かんとなり」とあります。釈迦がこの世に現れたのは、弥陀の本願を説くためだというのです。「仏教は念仏に尽きる」ということです。
 仏教に正像末史観と呼ばれる歴史観があります。釈迦入滅後の五百年は正法と呼ばれ、教(教え)、行(修行)、証(悟り)ともにありますが、その後の千年は像法と呼ばれ、教と行はあっても証はなく、さらにその後の一万年は末法と呼ばれて、ただ教のみがあって行も証もない。
 このように時代が下るとともに世の中が悪くなり、人間の資質も劣ってくると見るのです。釈迦の教えは、正法・像法の時代はともかく、末法の時代になりますと、もう誰もそれに従って修行しようとしなくなります。当然悟りをひらくものは一人もいません。そんな時代には、それに相応しい教えが必要で、それが念仏往生の教えだとされます。
 そうしますと、正法・像法の時代は聖道門、末法・法滅の時代は浄土門という具合にそれぞれの時代に応じて通用する教えが違うということになるのでしょうか。そうではないでしょう。念仏往生の教えは、正法・像法・末法・法滅のすべての時代を貫いて一切衆生を救いへと導いてくれるのです。

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