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7月11日(木) [はじめての親鸞(その195)]

 確かに聖道門は資質の優れた聖人に相応しく、浄土門は資質の劣った凡夫に相応しいと言うことはできるでしょう。ですから聖道門はわれら凡夫には敷居が高くて、とてもまたぐことができません。しかし逆は必ずしも真ならずで、浄土門はわれら凡夫だけでなく、資質の優れた聖人にもそのまま通用するのです。わずかな聖人にしか通用しない聖道門と、一切の衆生に通用する浄土門と、どちらが大きいか、その答えは明らかでしょう。
 仏教は念仏なのです。
 唯円は、相手から念仏は「かひなきひと」のもので「あさしいやし」と言われても、それと争うなかれと言います。誰かに「お前は馬鹿だ」と言われて「お前こそ」と言い返すのは、同じ土俵に立っています。そもそも何かを巡って争うというのは、同じものさしを持っているということです。ものさしが違っていますと、争いになりません。馬鹿だ、馬鹿じゃないという争いが成り立つためには、双方とも同一の「馬鹿のものさし」を持っていなければなりません。  
 念仏とたとえば禅と、どちらが優れているかを争うことができるでしょうか。
 念仏と禅とが競うためには、念仏も禅と同じ土俵に立たなければなりません。でも念仏は「他力」で、禅は「自力」でしょう。その寄って立つ土俵がまるで違います。念仏が禅と競うためには「他力」の土俵を降りて、「自力」の土俵に登らなければなりません。しかしそれではもはや念仏が念仏でなくなってしまいます。
 としますと、もし禅から「念仏はつまらない」と馬鹿にされても、「あなたにはつまらないかもしれませんが、わたしたちにはこれしかありませんので悪しからず」と言うしかありません。こんなふうに言われたら、相手方としてももう喧嘩する気がなくなってしまうのではないでしょうか。

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