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7月12日(金) [はじめての親鸞(その196)]

 でも、誰かに馬鹿にされたら、それに立ち向かっていきたくなるのが人情というものです。
 少し前になりますが、テレビに精神科医が出てきて簡単に性格判断する方法があると言います。いくつかの質問にイエスかノーかを答えることで、その人が情緒型か論理型か行動型か闘争型か職人型かが分かるということですので、ぼくは間違いなく論理型だろうと思いながらやってみますと、何と典型的な闘争型でした。一緒にやっていた妻がこの結果に大喜びしていました、「ほーら、わたしが言ってる通りでしょ」と。ハンドルを握るとやたら闘争的になるぼくを、助手席の妻はいつもヒヤヒヤしながら見ているからです。
 「お前が信じていることはつまらん」などと言われたら、闘争型のぼくとしてはムッとします。そして「お前こそつまらん」と言い返したくなります。ぼくの中の怒り虫が黙ってはいないのです。しかし唯円は「あさしいやし」と馬鹿にされても、それと争うなかれと言います。それでは相手と同じ自力の土俵に立つことになると。親鸞も関東に宛てた手紙で同じ趣旨のことを述べています。
 「阿弥陀仏以外の仏の教えを謗ってはいけません。念仏以外のことをしている人を謗ってはいけません。われら念仏者を憎み謗る人も、憎んだり謗ったりしてはいけません。むしろそのような人にあわれみをなし、悲しむこころをもつべきです」(『末燈鈔』第2通)。
 これが親鸞のスタンスです。
 しかしそんなことがどうしてできるのでしょうか。『聖書』の「もし誰かが、あなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい」を思い出します。しかし「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」などというのは、どう考えても常軌を逸しています。どうすればそんなことができるのか。

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