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7月14日(日) [はじめての親鸞(その198)]

 しかし、再度言いますが、念仏を妨げようとする人に「あわれみをなし」、そのような人を「かなしむこころをもつ」なんてことが自然にできるものではありません。自分を憎む人はやはり憎らしいからです。それが煩悩具足の凡夫の悲しいところです。
 一方では、本願に遇うことができ、「なむあみだぶつ」を聞くことができて、弥陀の光明に包まれる喜びを感じています。そしてその喜びは自ずと周りにもあふれ出るのを感じています。ところがその一方で、自分を激しく憎む人に出会うと、その人を憎らしく思うのを抑えることができません。そのような気持ちが全くないという人がいたら、その人はもう煩悩から解脱している人です。そのような人には、もう本願も念仏も必要がないでしょう。
 残念ながらぼくら煩悩具足の凡夫は、一方で本願に遇えた喜びに浸りながら、同時に怒りや憎しみに囚われています。念仏を妨げようとする人に「あわれみをなし」、その人を「かなしむこころをも」ちながら、同時に、「この野郎!」という憎しみを抑えることができないのです。
 これは紛れもない矛盾です。ぼくらの中に哀れみと憎しみとが同居しています。一方では、自分たちを迫害しようとする人たちを憎らしく思い、許せないと思う。しかし同時に、その人たちを哀れに思い、許そうとも思う。許せないが、許せる。どうすればこんな矛盾から逃げ出さずに、じっと耐えることができるのでしょうか。
 『聖書』の中の印象的なシーンを思い出します。イエスを陥れて訴えてやろうと企む人々が姦淫の罪を犯した女をイエスの前に連れてきて言います、「律法にはこのような女は石打の刑に処すべきだと書いてありますが、あなたならどうしますか」と。

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