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7月16日(火) [はじめての親鸞(その200)]

 このように念仏者を迫害する人たちを憎んではいけないと繰り返し言いながら、同時に親鸞はこの迫害の構造をしっかり見ています。
 どうしてこうもしつこく念仏が迫害されるかと言いますと、念仏の教えは世の支配秩序を乱す恐れがあるからです。これを放っておいては、仏教界の秩序が乱れるのみならず、貴族・武士を中心とする社会の秩序そのものが根本的に揺らぐと聖俗の権力者たちには感じられたからです。
 念仏往生の教えは「いし・かわら・つぶてのごとくなる」有象無象たちのものです。ここにこの教えの本質があると言っていい。
 このことばは『唯信鈔文意』という書物の中に出てくるのですが、親鸞は「屠沽(とこ)の下類」ということばを解説してこんなふうに言います。「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり。これはれうし(猟師)といふものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人(商人)なり。これらを下類といふなり」。
 その上でこう言うのです、「れうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」と。この「われらなり」ということばで親鸞は自分の立ち位置をはっきりと表明しています。
 念仏往生の教えは世の善人たちのものではなく、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」のものであるという宣言は、自らを世の善人と任じている聖俗の権力者にとってはそのまま捨て置けない危険なものと言わなければなりません。それは世の善人たちを中心としてつくられている社会の秩序を根底からひっくり返すものだからです。

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