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7月18日(木) [はじめての親鸞(その202)]

 「悪人こそ救われる」(悪人正機)と「どんな悪をしてもいい」(本願ぼこり)は、どう違うか。
 親鸞は手紙の中で「おもわざるほかに(思いがけず)」と「わざと」を対比することによって両者の違いを説明しています。われらは「煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことををおもふ」ものだが、「本願ぼこり」は何をしても往生にさわりはないからと「わざとすまじきこと」をしようとする。その違いが根本にあると。
 「わざとすまじきこと」をする人には「世をいとふ(厭う)しるし」がないと親鸞は言います。「世を厭う」というのは、「悪人である自分を厭う」ことに他なりません。悪人であることを厭う気持ちがなければ、「どんな悪人も救われる」と聞いても、腹の底から突き上げるような喜びを感じることはないでしょう。しかし、自分の中の悪を苦々しく見つめている人は、「どんな悪人も救われる」の声に、天に踊り地に躍るほどの喜びを感じるに違いありません。そしてその喜びの中で「少しでも悪から遠ざかるようにしよう」と思うことでしょう。
 「どんな悪人も救われる」の声に喜びを感じるかどうか、ここに分かれ道があるようです。そして突き上げるような喜びを感じるということは、その裏に深い悲しみがあるということです。悲しみを知らない人には喜びも無縁です。悲しみがあるから喜びがあり、悲しみが深ければ深いほど、喜びは大きい。悲しみとは「機の深信」であり、喜びとは「法の深信」です。前者は「こんな自分が救われるはずがない」という悲しみであり、後者は「こんな自分が救われる」という喜びです。

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