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7月22日(月) [はじめての親鸞(その206)]

 「ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく」について、親鸞は『尊号真像銘文』という書物において次のように述べています。
 「“唯除”といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとが(咎)をしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」
 簡にして要を得ていると言うべきです。
 どんな悪行も往生のさわりとなることはありません。でもだからと言って、わざと悪事をはたらくのは、いい薬があるからというので、わざと毒を飲むようなものです。「南無阿弥陀仏」は悪を転じて善と成す妙薬ですが、その薬があるからといってわざと毒を好むのは、「南無阿弥陀仏」に遇えた喜びを感じていないということです。
 ふと「南無阿弥陀仏」の声が聞こえて、「こんな自分が、このままで救いを約束されているなんて、何と有難いことよ」という思いが生まれたときに、わざと毒を飲んでやろうという荒んだ気持ちが出てくるはずがありません。逆に、これまでの自分を少しでも見直そうという穏やかな気持ちになるに違いありません。
 これまで、「ただ五逆と謗法を除く」という文言が喉に刺さった棘のように気になってきましたが、これを「どんな大罪でも許されない罪などないが、五逆と謗法などという罪はゆめゆめ犯さないように」という戒めと考えれば、何と行き届いた配慮かと有難く思えるのではないでしょうか。

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