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はじめての『教行信証』(その3) ブログトップ

2013年7月31日(水) [はじめての『教行信証』(その3)]

 関東から命がけでやってきた人たちの思いつめた気持ちは痛いほど分かりますが、親鸞のこのことばも素っ気無いようで、実は何とも有難い。もしその場で、「はい、それではここに大事なことがすべて書かれていますから、これをじっくり読んでください」とこの『教行信証』を渡されたら、ぼくのように仏教についての学もなく、意志も弱い人間は途方に暮れてしまうのではないでしょうか。
 ところが、「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と言われたのです。何だかホッとするではありませんか。ホッとしながら、しかし本当にそれだけでいいのだろうかという疑念は依然として消えません。その疑念を見透かしたように、こんな衝撃的なことばが続くのです。
 「念仏は、本当に浄土に往生できる種なのか、あるいは地獄に落ちる業なのか、そもそもわたしは知りません。たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしましても、全く後悔はありません。何故かといいまして、念仏以外の行で仏になれる身が念仏をしたために地獄に落ちましたら、騙されたという後悔もあるでしょうが、どんな行も及びがたい身ですから、地獄は定めてわたしの住処ではありませんか」と。
 ぼくには『教行信証』の何十万語よりも、この短いことばが何とも有り難い。このことばはぼくの胸にズシンと届きます。これは本物のことばだと思うのです。そう思いながら、このことばを残したのも親鸞なら『教行信証』を残したのも親鸞であることに何か割り切れない気持ちがするのです。

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