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はじめての『教行信証』(その7) ブログトップ

2013年8月4日(日) [はじめての『教行信証』(その7)]

 では本文中に出てくる元仁元年(1224年)とは何でしょう。注目したいのが、この年にまた専修念仏が禁止されているということです。
 承元の法難(1207年)で専修念仏が禁止され、法然・親鸞などが流罪となったのですが、その後、弟子たちの努力で京都を中心としてまた念仏の声が盛んになっていきました。そこで再び比叡山延暦寺から訴訟が起こされ、承元元年から17年目の元仁元年にまた専修念仏が禁止されたのです。
 そしてそれからさらに3年後、嘉禄三年(1227年)には隆寛をはじめとする法然の高弟たちが流罪となり、さらには『選択集』の版木が焼かれ、法然の墓まで襲われたのです。これを嘉禄の法難と言いますが、こうした事件が『教行信証』執筆のきっかけとなったと考えることができます。ですから、元仁元年の頃に常陸で執筆が始まり、京都に戻ってからも書き継がれて、最晩年に至るまで推敲の手が入り続けたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
 さて三点目に、これがもっとも肝心なことですが、この書物は一体どんな性格の書物かということです。何度も言いますように、これは浄土真宗の根本聖典です。ところが、ぼくもそうでしたが、えてして『歎異抄』や『末燈鈔』といった書物を有り難がり、『教行信証』は敬遠しがちです。お寺の御住職でも『教行信証』は難しくてと言われます。それは、前に述べましたように、この書物のほとんどが経・論・釈からの引用で埋め尽くされていれ、そのことに戸惑わされるのです、この書物は一体何だろうと。

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