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はじめての『教行信証』(その11) ブログトップ

2013年8月8日(木) [はじめての『教行信証』(その11)]

 「知る真理」と「気づく真理」。後者は「感じる真理」とも言えます。このことばには違和感があるかもしれません。真理は知るものであって、感じるものではないというのが普通の感覚でしょう。そこから「すべての真理がすでに説かれている」と言われることへの反発が生まれてくると思われます。
 真理が知るものであるとしますと、「もうすでに」ということはありえないからです。でも「感じる真理」があるのであれば、それは「これから」新たに掴み取らなければならないものではなく、「もうすでに」あるものです。「知る」のは「これから」でも、「感じる」のは「もうすでに」です。
 では「感じる真理」はほんとうにあるのか。
 それを感じるひとには紛れもなくあります。でも感じないひとには、どこにもありません。親鸞は「感じる真理」に出あい、その悦びをこう表現しました、「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」と。そして聞くことができたことを一冊の聖典にまとめ、「ここに真理がある」と人々に指し示したのが『教行信証』という書物です。
 ここに「聞く」ということばが出てきますが、『教行信証』を読んでいまして、親鸞は経典のことば、論・釈のことばを聞いているのだということを強く感じます。金子氏もこんなふうに言われます、「『教行信証』のほうは、…その表現の形式を見ると、親鸞は聞いている、親鸞に語っているのは仏である、如来の言葉を親鸞が聞いているのである。…それに対して『歎異抄』は親鸞聖人自身を語っている。…親鸞の話を聞こうということで集まったいわゆるお弟子たちに話をしておられる」と。

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