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2013年8月11日(日) [はじめての『教行信証』(その14)]

 「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえたり」の「あふ」は「遇ふ」で、たまたまあうということです。こちらから出かけて行って「会う」のではなく、向こうからやってきた人にばったり「遇う」のです。「聞く」も同様です。聞こうとして聞くのではなく、ふと聞こえてくる。こちらから出かけて行って聞くのではなく、向こうからやってくる声が聞こえるのです。
 たまたま遇い、ふと聞こえてきて心に沁みる、これが与えられる信です。困り果てた友人がやってきて「君しか頼れないんだ」と漏らした時、その声がぼくの心に沁みたら、たとえ騙されてもいいからとお金を貸して上げるでしょう。これが与えられる信です。
 親鸞は「ただ念仏して陀仏にたすけられまひらすべし」かどうかを確かめるために経典や論釈を参照しようとしているのではありません。もしそうでしたら、それは「こちらから与える信」になってしまいます。
 そうではなく、経典や論釈から不思議な声が聞こえてきて心に沁みたと言っているのです。その喜びを語っているのです。これが「向こうから与えられる信」です。親鸞がこちらから経典・論釈に問いかけているのではなく、経典・論釈が向こうから親鸞聖人に呼びかけているのです。親鸞はそれをほれぼれと聞いているだけ。
 このように親鸞は『教行信証』において経典や論釈をほれぼれと聞いているとしますと、ぼくらも『教行信証』を読むのではなく聞かなければなりません。

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