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2013年8月12日(月) [はじめての『教行信証』(その15)]

 『教行信証』を〈読む〉というのは、親鸞が言っていることが正しいかどうかを吟味するということで、そのためには、直接の師である法然上人の『選択本願念仏集』を読まねばなりません。そして今度は法然上人の言っていることが正しいかどうかを調べるために、法然上人がそれを読んで目を開かされたという善導大師の『観経疏』に当たり、そして善導大師の言っていることが正しいかどうかを調べるために云々。これが読むということです。常に「これは正しいか?」という疑いのまなざしを持って徹底的に調べ上げる学問の営みです。
 一方〈聞く〉ということはどうか。親鸞は『歎異抄』においてこんなふうに言っています。「阿弥陀仏の本願がまことでしたら、釈尊の教えも虚言ではないでしょう。釈尊の教えがまことでしたら、善導の解釈も虚言であるはずはありません。善導の解釈がまことでしたら、法然の言われることもそらごとではないでしょう。法然の言われることがまことでしたら、この親鸞の言うことも、またむなしくないのではないでしょうか」。先ほどの親鸞から法然へ、法然から善導へと根拠を遡るベクトルとは逆さまです。弥陀から釈尊へ、釈尊から善導へ、善導から法然へ、法然から親鸞へ。これは同じことをただ裏返して言っているだけでしょうか。そうとは思えません。
 こちらから根拠を遡っていくのではなく、向こうから次々にリレーされてくるのです。弥陀の本願が釈尊に届き、釈尊の教えが善導の心に沁み込み、善導の解釈が法然の目を開かせ、そして法然のことばに親鸞が「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえた」のです。こうして親鸞としてみれば今聞くことができたのですが、実はもう永劫の昔からはるかにリレーされてきたのです。それを今聞かせてもらい、心に沁みた、これが宗教です。

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