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2013年8月14日(水) [はじめての『教行信証』(その17)]

 生きることに迷い、死ぬことに惑っているこの現実の世界を「荒海」に譬え、小さな船が大波に翻弄されるさまをイメージさせるのはぼくらの感覚にもピッタリです。そんなとき、大きな船に出会えることの喜びは如何ばかりでしょう。ああ、助かった、という安堵の思いは如何ばかりでしょう。これが本願他力だと親鸞は教えてくれるのです。
 また、欲に囚われ、怒りに狂い、愚痴に惑っているぼくらの現実を「闇」に譬え、真っ暗闇の中を彷徨っているさまをイメージさせるのも、これまたピッタリきます。そんなとき、どこかから一条の光が差し込んできたときの嬉しさは如何ばかりでしょう。これが本願他力だと親鸞は伝えてくれるのです。
 さて、それに続いて、本願他力の教えが登場してきた経緯を次のように述べます。
 「さてここに浄土の教えが現われる縁が熟しまして、提婆達多(だいばだった)が阿闍世(あじゃせ)をそそのかして父王殺害という逆悪をおこさせました。そして浄土往生の行(念仏)を受ける機が現われまして、釈迦如来が韋提希(いだいけ)夫人に浄土への往生を選ばされたのです。これらのことは、菩薩たちが提婆達多や阿闍世、韋提希などの姿となって、苦しみに沈んでいる衆生をひとしく救おうとされたのであり、また釈迦如来の大悲のこころが五逆罪のもの、謗法のもの、仏に縁なきものを救おうと思われたのです。」
 本願他力は難度海を度する大船であり、無明の闇を破する慧日であると説かれたあと、「しかればすなはち」ときて、この王舎城の悲劇が語られるのです。この鮮やかな展開には、しかし戸惑いを覚えます。

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