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2013年8月17日(土) [はじめての『教行信証』(その20)]

 王舎城の悲劇を機縁として本願他力の教えが説かれたと述べた後、「かるがゆへにしんぬ」ときて、念仏の道はとりわけ「悪が重く、障りの多いもの」のためにあると説かれるのですが、ここは少し考えなければなりません。
 と言いますのは、『観無量寿経』にありましたように、韋提希が「願わくは、世尊よ、わがために広く憂悩なき処を説きたまえ」と救いを求め、釈迦がそれに応じて彼女に浄土の教えを説くのでした。韋提希は阿闍世のなした悪に苦しめられこそすれ、みずからの悪に悩んでいるわけではありません。では、浄土の教えと「悪が重く、障りの多いもの」との関係をどう考えたらいいのでしょう。
 結論を先取りしますと、浄土の教えは韋提希を通じて、実は阿闍世のために説かれているのです。
 韋提希の立場になってみましょう。阿闍世がどんな悪人であっても、わが身から生まれた子です。その阿闍世が悪の報いで地獄に堕ちなければならないとしますと、たとえ自分が極楽に救われるとしても、そんな救いはちっとも有り難くないはずです。
 金子大栄氏の本を読んでいましたら、こんな一節がありました。「もし、『五逆十悪のものは助からんぞ』とお釈迦さまがおっしゃったとすれば、韋提希夫人は『せっかくここまで歩んできたけれども、わたくしはお浄土へおまいりするのはやめます』というでしょう。…『それじゃ、わたくしだけ助かってもはじまらぬ、浄土へいくのはやめます』といいたいところに韋提希夫人の肚があったのだろうと思います。」

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