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はじめての『教行信証』(その21) ブログトップ

2013年8月18日(日) [はじめての『教行信証』(その21)]

 釈迦は韋提希(いだいけ)を相手に教えを説いているとはいえ、実際にめあてになっているのは阿闍世(あじゃせ)であり、彼のように五逆の罪を犯したものであっても救われるかどうかが問題となっているのです。だからこそ「あらゆる恵みが収まっている名号(「なむあみだぶつ」)は、どんな悪も徳にしてしまう智慧」ということばが生きてきます。
 親鸞は阿闍世の極悪非道も浄土往生のさわりとならないと言うのです。浄土の教えの根幹が「悪」の問題であることがここですでにはっきり出ています。極悪非道も浄土往生のさわりにならないとしますと、さっそく浄土の教えの要である第十八願の「ただ五逆と謗法を除く」(父殺し、母殺しなどの五逆罪のものと仏法を誹謗するものは救いから除かれる)という但し書きが大問題となりますが、それは信巻においてかなりのスペースを割いて論じられることになります。ここでは「なむあみだぶつ」はあらゆる悪を転じて徳となすと述べられるだけです。
 「災い転じて福となす」ということばを手がかりに考えてみたい。
 このことばは、災いがすっかり消えて、幸せに取って代わられるということではないでしょう。災いは災いのままです。でも、その災いという谷をくぐり抜けることによって、思いもかけない幸せを見いだすという意味に違いありません。津波に遭い、愛する息子を失くしてしまった、それはもう取り返しがつきません。その悲しみは誰も癒すことができない。でも、その悲しみの谷を通り抜けることで、そうでなかったら到底得られなかった喜びの大地に出ることがあると。

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