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2013年8月22日(木) [はじめての『教行信証』(その25)]

 親鸞は「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえたり」と表現するのですが、この言い回しでとても面白いと思うのは、「いま」と「すでに」の対照です。「いま」は現在で「すでに」は過去ですから矛盾するようにも思える言い方ですが、すんなり耳に入ってきます。
 ここに何か大事なことが隠されているような気がします。「遇う」や「聞く」の場合、「いま」は「すでに」を含んでいるのではないでしょうか。「いま聞こえた」と言う時、すでに聞こえていたのだが、これまで気づかなかった、たったいま聞こえていることに気づいたというニュアンスがあります。
 健康診断で聴力検査を受ける時、無音室の中でヘッドホンからかすかな音が流れてきて、それが聞こえたらボタンを押して知らせますが、あれは音量を次第に大きくしていき、どこで聞こえたかを調べているのでしょう。音はすでに流れているのです。ただ余りに小さくて聞き取れないだけです。ある音量になった時、「あっ、いま聞こえた」となる訳です。ですから、「いま聞こえた」は「すでに聞こえていた」を含意しているのです。「すでに聞こえていたことにいま気づいた」ということです。
 『歎異抄』第一章に「念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」のくだりがあります。この短い文章に親鸞の言いたかったことがギュッと凝縮されている部分です。「摂取不捨の利益」は「あゝ救われたという喜び」と受け取りましょう。そして「すなはち」は「そのとき直ちに」の意味ですから、「ふと念仏申そうかと思った時、直ちに、あゝ救われたという喜びにあずかることができるのです」ということになります。

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