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はじめての『教行信証』(その35) ブログトップ

2013年9月1日(日) [はじめての『教行信証』(その35)]

 こうして釈迦の悟りの内容が人々に伝えられることになりますが、何度も言いますように、これは釈迦自身が自分の力で掴み取ったものではなく、向こうから聞こえてきたものです。ムハンマドの口から出ることばが、彼自身のことばではなく、神のことばであるように、釈迦の口から出ることばも、釈迦自身のことばではありません。
 経典が「如是我聞」で始まることはよく知られています。「私はこのようにお聞きしました」という意味で、弟子(阿難)が釈迦からこう聞いたということです。さて、これをさらに釈迦自身にとっても「如是我聞」であると理解できないでしょうか、釈迦も「私はこのように聞きました」と言っているのではないか。
 阿難は釈迦から聞いたのですが、では釈迦は誰から聞いたのか。ムハンマドでしたらアッラー(あるいは天使から)から聞いたとなるでしょうが、釈迦の場合はどこから聞こえてきたのかがはっきりしません。ここに釈迦の「如是我聞」が物語になる根拠がありそうです。
 しかし、「如是我聞」という形式であるとしても、その内容が物語でなければならないことはありません。こんな「事実」を聞いたでもいいし、こんな「思想」を聞いたでもいいはずです。どうして「物語」でなければならないのか。
 先ほど言いましたように、釈迦に何かが聞こえてきて、その声に釈迦が掴み取られたのです。ところがその声がどこから来るのか分からない。聞こえてくる声の主がはっきりしているのでしたら、誰それがこんなふうに言うのを聞いたと報告すればいい。そしてその内容は事実であることも思想であることもあるでしょう。しかしどこから聞こえてくるのか分からないと、どんな内容であれ物語にならざるをえません。

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