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2013年9月8日(日) [はじめての『教行信証』(その42)]

               4.行巻(その1)
(1)第十七願
 教巻の冒頭は「往相の廻向について、真実の教行信証あり」でしたが、次の行巻の頭には「つつしんで往相の廻向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来のみなを称するなり」とあります。
 「救われていく姿(往相)には行と信があり、行といいますのは弥陀の名号を称えることです」ということですが、それに続いて「それは如来の悲願にもとづいています」と述べます。そしてその願というのが第十七願だというのです。
 因みに次の信巻は第十八願、証巻は第十一願というように、それぞれもとになる願があります。それぞれの巻の冒頭にそれらの願名が掲げてありますので「標挙(ひょうこ)の願」と呼ばれます。
 行巻に入ってまず疑問として浮かび上がるのが、どういう訳で行巻の標挙の願が十七願なのかということです。何はともあれ、第十七願を上げておきましょう。「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して(ほめたたえて)わが名を称せずといはば、正覚をとらじ」。
 ここで四十八願の形式について見ておきましょう。すべての願の冒頭に「設我得仏(たとい、われ仏となるをえんとき)」、つまり「たとえ私が仏となるとしましても」という文句が来て、末尾は「不取正覚(正覚を取らじ)」、つまり「決して悟りを開きません」という文句で閉じられます。そしてその間に「かくかくしかじかのようであるならば」という内容が盛られるのです。
 例えば第一願は「たとい、われ仏となるをえんとき、国に地獄、餓鬼、畜生あらば、正覚を取らじ」となっています。つまり「たとえ私が仏となるとしましても、私の国の中に地獄や餓鬼や畜生があるようでしたら、私は悟りを開きません」ということです。このように否定の形で「私の国の中に三悪道がないようにしたい」と強く願っているのです。


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