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はじめての『教行信証』(その44) ブログトップ

2013年9月10日(火) [はじめての『教行信証』(その44)]

 「なむあみだぶつ」はぼくらがこちらから称えるより前に、向こうから聞こえてくるということ。
 『無量寿経』には別訳(同じサンスクリット原本を別の人が訳した漢訳経典)がいくつもありまして、親鸞はそれらも取り上げているのですが、その方が分かりいいケースがあるからでしょう。
 その一つ『平等覚経』にはこうあります、「わたしが仏になるときは、わたしの名をありとあらゆる仏の国に聞こえるようにしたい。そのために仏たちが弟子たちにわたしの功徳やわたしの国の善いところをほめたたえるようにさせよう。そうすれば天人や人間はもちろん、虫たちにいたるまで(諸天人民蠕動のたぐひ)わたしの名を聞いて喜びにあふれることだろう。そのものたちをわたしの浄土に迎え入れたい。もしそうでなかったら仏にはなるまい」。
 『無量寿経』では、ただ「諸仏がわたしをほめたたえてわたしの名を称えるようにしたい」とだけありましたのでピンとこなかったのですが、このように丁寧に言ってもらいますと、諸仏が阿弥陀仏の名を称えるのは、それを「諸天人民蠕動のたぐひ」に聞かせて踊躍歓喜させんがためであることがよく分かります。
 こうして阿弥陀仏の名はぼくらが称えるのではなく、諸仏が称えてぼくらに聞かせるのだということがようやく了解できるのです。さらに親鸞は「大行といふは、すなはち無碍光如来のみ名を称するなり」と「大行」と言っていることにも遅まきながら気づきます。これはわれらの行ではなく、諸仏の大行なのだと。

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