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はじめての『教行信証』(その49) ブログトップ

2013年9月15日(日) [はじめての『教行信証』(その49)]

 信と行は別ものではないことを実に分かりやすく説いています。信も行も弥陀の本願であるという最後の一文がピシッと効いています。行巻があり、別に信巻があるのだから、行と信は別ものだろうと思うととんでもない間違いです。行は取りも直さず信であり、信はそのままで行なのです。行と信が切り離された瞬間にどちらも「わがはからい」になってしまいます。「往生のための行」、「往生のための信」になってしまうのです。
 さて、そのあと七高僧の論釈からの引用が続きます。龍樹の「十住論」、世親の「浄土論」、曇鸞の「浄土論註」、道綽の「安楽集」、善導の「観経疏(かんきょうしょ)」、そして日本の源信の「往生要集」、法然の「選択本願念仏集」と実に幅広く集められています。それらをいまここで検討することはできませんが、ただ善導が「観経疏」の中で「南無阿弥陀仏」の字義を説いているところは省略するわけにはいきません。親鸞がその部分について自分の見解を述べていまして、それが非常に重要な意味を持っているからです。
 善導の「観経疏」の文です。
 「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり(即是其行)。この義をもてのゆへに、かならず往生をう(必得往生)。」
 (「南無阿弥陀仏」の「南無」というのは、仏に帰依することです。また願を立て廻向することです。「阿弥陀仏」というのは、その行のことです。「南無阿弥陀仏」とはこういう意味ですから、必ず往生することができるのです。)
 行巻にはこの部分だけが引用されているのですが、どうして善導がこんなふうに述べているか、その背景に何があるかはこれだけでは分かりません。

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