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はじめての『教行信証』(その48) ブログトップ

2013年9月14日(土) [はじめての『教行信証』(その48)]

 念仏とは「なむあみだぶつ」であり、そして「なむあみだぶつ」が信心であるとして、念仏と信心が「なむあみだぶつ」を媒介に一つに結びつけられます。
 常識的な言い方ですと、「なむあみだぶつ」と称えるのが念仏であり、「なむあみだぶつ」と称えれば往生できると信じるのが信心でしょう。この方が分かりやすいのですが、しかしそう言いますと、念仏と信心とが別々になってしまう恐れがあります。
 それだけではなく、往生するには念仏と信心の双方が揃っていなければならないというように、念仏と信心が往生の条件となり、それでは親鸞の言いたいことの肝心なところが抜け落ちてしまうのです。
 念仏と信心とは別ものではないということ、ここに親鸞の他力思想の核心があります。『末燈鈔』第11通を見ておきましょう。
 「さて、お手紙でご質問のことです。信の一念と行の一念と二つあるように思われるかもしれませんが、信を離れた行はありません。また行の一念を離れた信の一念もありません。
 と言いますのは、本願の名号を一声称えて往生すると聞かせていただき、一声称えもしくは十声称えるのが行です。そして、このお誓いをきかせていただき、疑う心が少しもないことを信の一念と言うのです。
 ということですから、信と行は二つのようですが、一声称えればいいと聞いて疑いがありませんから、行を離れた信はないとお聞きしております。また信を離れた行はないとお思いになってください。
 これらはみな弥陀のお誓いであるということを忘れてはなりません。」

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