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2013年9月16日(月) [はじめての『教行信証』(その50)]

 実は当時(唐の時代です)、「南無阿弥陀仏」と称えれば浄土往生できるとする浄土教に対して、「それはただ浄土往生を願っているだけで、行が伴っていないではないか」という深刻な批判があり、それに善導が答えているのです。
 仏道は往生を願うだけでなく、そのための行が備わってはじめて成就されるが、浄土教は願だけで行がないというのに対して、善導は、「南無」は確かに仏に帰命して往生を願うということだけれども、「南無阿弥陀仏」と称えるのは仏の名を称えるという行に他ならず、それは本願に誓われた行だから必ず往生できるのだと答えているのです。
 教巻にありましたように、「仏の名号をもて経の体とする」のですから、「南無阿弥陀仏」の六文字をどう理解するかはすべての根幹です。そこで親鸞は善導の釈を受けて、さらにその意味するところを明らかにしようとします。行巻のハイライト部分ですが、ここではその要点をまとめておきましょう。
 「南無」すなわち「帰命」を「帰」と「命」に分け、「帰」の意味を「帰説(きえつ)」と「帰説(きさい)」の熟語から明らかにしようとします。前者は「よりたのむ」で後者は「よりかかる」ということで、悦(えつ)と税(さい)の二つの読みがある「説」は「宣べる」という意味だとするのです。そして次に「命」についてさまざまな意味を上げますが、要するに、招くこと、召すことであるとします。かくして帰命とは、阿弥陀仏がわれらに「帰っておいで」と宣べ、招き、召すことだと結論づけるのです。
 つまり「南無」とは「本願招喚の勅命」であると。ここには鮮やかなコペルニクス的転回があります。

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