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はじめての『教行信証』(その53) ブログトップ

2013年9月19日(木) [はじめての『教行信証』(その53)]

 電車の中で、目の前の人から「どうぞ」と席を譲られたとき、どうしてこの人は私に席を譲ってくれるのだろう、何か下心があるのではないかなどと疑い、この人に邪念はなさそうだと判断して親切を受け入れるでしょうか。そうではなく、思わず「ありがとう」と応じるのではないでしょうか。「どうぞ」と「ありがとう」は間髪いれずです。
 いや、このご時勢、どんな輩がいるか分からないから、ものごとは疑ってかからなければならない、と言われるかもしれません。なるほどそういうこともあるでしょうが、「やあ」には間髪いれず「やあ」と応じるのがコミュニケーションのはじめです。「やあ」と言われて、どうしてこいつは「やあ」と言うのかといちいち詮索していてはコミュニケーションそのものが成り立ちません。
 「来たれ、救おう」の「こえ」がふと聞こえるとき、「歓喜踊躍して」ということが鍵を握っています。思わず喜びがあふれるのです。そして「あなたにしたがいます」と言う。因幡の源左は「源左、たすくる(助けるぞ)」と聞こえ、思わず「ようこそ、ようこそ」と応じましたが、そこには腹の底からわき上がってくる喜びがあったに違いありません。何か鬱々と楽しまないこころに「源左、たすくる」の「こえ」が染みとおったはずです。だからこそ間髪いれず「ようこそ、ようこそ」と口をついて出た。
 これが他力の念仏ですが、さらに踏み込んで考えたいと思うのは、「諸仏の称名」と「われらの称名」の関係です。どちらも「なむあみだぶつ」であるということ、ここに潜む謎についてです。仏たちの「なむあみだぶつ」の「こえ」が聞こえ、それに対してわれらがまた「なむあみだぶつ」と応える。

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