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2013年9月20日(金) [はじめての『教行信証』(その54)]

 弥陀の「ねがい」を仏たちが「なむあみだぶつ」という「こえ」にしてわれらに届けてくれ、それを聞いたわれらがまた「なむあみだぶつ」と「こえ」にする。
 としますと、われらが「なむあみだぶつ」と称えるというよりも、向こうからやってきた「なむあみだぶつ」そのものが、喜びをもたらしながらわれらの身体を通り抜け、また向こうへと届けられていくというイメージです。
 弥陀の「ねがい」が「なむあみだぶつ」の「こえ」となり、それが次々とリレーされていく。
 われらの「なむあみだぶつ」はあくまで「帰命」、つまり「あなたにしたがいます」でしかないのですが、それが他の誰かには「招喚」、つまり「来たれ、救おう」と聞こえるということ。この秘密を明かしてくれるのが「往相と還相」です。
 往相というのは浄土へ往く相で、還相とは逆に娑婆に還る相という意味ですから、普通に考えますと、まず浄土へ往き、しかる後に娑婆に還ってくるというUターンのイメージになります。そして浄土へ往くのは自らの利益(自利)で、娑婆に還るのは他を利する(利他)ためですから、まずは自利、後に利他とこれまた分離されます。
 ここが名古屋(娑婆)で、向こうに東京(浄土)があり、まず名古屋から東京へ行き、用を済ませて再び名古屋に帰ってくるといったイメージです。しかし娑婆と浄土はこのような関係でしょうか。このイメージはどうにも親鸞の他力思想と反りが合いません。

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