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2013年9月22日(日) [はじめての『教行信証』(その56)]

             5.行巻(その2)
(1)不廻向の行 
 念仏の行を明らかにするために、多くの経・論・釈が引用されていますが、その最後に法然の『選択本願念仏集』から次の有名な文(「三選の文」)が引かれます。
 「それすみやかに生死をはなれんとおもはば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきてえらんで浄土門にいれ。浄土門にいらんとおもはば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし。正行を修せんとおもはば、正助二業のなかになを助業をかたはらにして、えらんで正定業をもはらにすべし。正定の業といふは、すなはちこれ仏名を称するなり。みなを称すればかならず生ずることをう。仏の本願によるがゆへに。」
 まず聖道門を捨てて浄土門を選ぶ、次に雑行を捨てて正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)を選ぶ、最後に助業(称名以外の四業)を捨てて正定業(称名)を選ぶ、というので三選の文と呼ぶのですが、この文章は最後の一文「仏の本願によるがゆへに」によってピシッと締められます。われらが勝手に浄土門を選び、正行を選び、正定業を選ぶのではなく、弥陀の本願がその選択をしてくださったということです。要するに、称名念仏を選ぶのはわれらではなくて阿弥陀仏であるということ、ここにこの文の核心があります。
 かくして親鸞はこれまでの引用を総括してこう述べるのです。「あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不廻向の行と名づくるなり。」(以上の経・論・釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、みずからのはからいによってなす行ではないことが明らかです。だからこそ行者のほうからは不廻向の行と名づけられるのです。)

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