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2013年9月23日(月) [はじめての『教行信証』(その57)]

 『歎異抄』第8章に「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なり」とあったことが想起されます。
 「不廻向」といい「非行」という、ここに他力思想の核心があるのは確かですが、さてしかしこれが本当に腑に落ちるかどうか。と言うのも、称名というのはあくまで自分がすることだからです。自分で称えようと思わなければ念仏することはできません。それがどうして「不廻向」であり「非行」なのか。
 先の『選択集』の文に「みなを称すればかならず生ずることをう」とありました。「念仏すれば往生できる」というのですが、この言い回しの構造を考えてみたいと思います。そうすることで「念仏は不廻向であり、非行である」ことが腑に落ちると思うからです。
 さて、「念仏すれば往生できる」という文は「AをすればBとなる」と一般化することができ、Aをするという原因があれば、Bという結果が生じると言っているように思えます。ところで、金子大栄氏はこんなふうに問いかけるのです、「善いことをすれば幸せになる」と「幸せになりたいなら善いことをせよ」とは同じことかと。
 同じに見えます。言い方が逆なだけで、言っていることはきっかり同じように思えます。どちらも「よいことをする」が原因となり「幸せになる」という結果が生じると言っているように見えるからです。しかしほんとうにそうか。

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