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はじめての『教行信証』(その59) ブログトップ

2013年9月25日(水) [はじめての『教行信証』(その59)]

 もし「念仏すれば往生できる」が「念仏することが原因となって往生できる」という意味であれば、それを逆に言いますと、「往生するためには念仏しなければならない」となり、その念仏は「わがはからひにて行ずる」念仏になります。それは往生のためにこちらから廻向する念仏、化身土巻で取り上げられる第二十願の念仏であり、自力の念仏です。
 しかし、「念仏すれば往生できる」が「念仏することがそのまま往生すること」であるとしますと、南無阿弥陀仏の声が聞こえて、その嬉しさが南無阿弥陀仏の声となって口から出たとき、もうすでに往生しているのです。
 「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)の「すなはち」はそのことを指しています。「念仏する」ことがそのまま「摂取不捨してもらう」こと、つまり「往生する」ことに他ならないのです。「即得往生」とはそういうことです。
 そのとき念仏は「不廻向」の行であり「非行」です。
 さて念仏は不回向の行であるとした後、次のことばが続きます。
 「名号という慈父がましまさなければ、往生の因が欠けます。また、光明という慈母がましまさなければ、往生の縁がなくなります。しかし名号の因と光明の縁がそろったとしましても、信心がなければ浄土に往生することはできません。真実の信心、これが往生の内なる因で、名号と光明の父母、これが外なる縁となって、この内外の因縁が揃って、浄土へ往生することができるのです。」

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