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はじめての『教行信証』(その64) ブログトップ

2013年9月30日(月) [はじめての『教行信証』(その64)]

 浄土往生の教も行も信も証も、すべて如来の廻向であり、他力であるということ。
 浄土の教えは「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)と要約されます。ここに出てくる信心、念仏、成仏(往生でも同じです)のすべてが弥陀のたまもの、如来の廻向であるとするのが親鸞の他力思想ですが、これには異論がありましたし、今もあります。
 法然の教えを受けた弟子衆は夥しい数に上りますが、今日までその系統が続いているのは大きく言って、弁長の鎮西浄土宗、証空の西山浄土宗、そして親鸞の浄土真宗の三つのグループです。(証空の孫弟子である一遍の時宗を入れますと四つになります。)
 その中で浄土宗の主流である鎮西派(九州に大きな勢力があったことからこう呼ばれます)は、「往生できるのはもちろん弥陀の力によるが、しかしそのためには本願を信じ、念仏しなければならない。少なくとも信心と念仏はわれらに課されているのであって、もし信心・念仏も弥陀から与えられるとすると、本願が成就した十劫の昔に一人残らず往生していなければならないではないか」と主張します。
 これはある意味で非常に素直で穏当な解釈と言うべきでしょう。「本願を信じ、念仏をまうさば」というのですから、信心と念仏は往生のためにわれらがクリアしなければならない条件だと考えるのが普通です。しかし親鸞の真骨頂は「無条件の救い」にあり、そうであるためには、信心も念仏も弥陀からの賜物としなければなりません。

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