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はじめての『教行信証』(その65) ブログトップ

2013年10月1日(火) [はじめての『教行信証』(その65)]

 無条件の救いであるためには、信心も念仏も弥陀からの賜物でなければならないということ。
 ここで思い出すのが『歎異抄』の後序です。ある時(承元の法難が来る前のことです)、まだ若かった親鸞が「わたしの信心も法然聖人の信心もひとつ」と言ったところ、兄弟子たちが「そんなことがあるはずがない」と異を唱えたという話です。
 兄弟子たちとしますと、新参者の親鸞と法然聖人を同列に置くなどとはとんでもないことと思えたのでしょうが、親鸞は知恵においては高低があっても信心は同じはずだと主張して譲らない。
 最後に法然自身の裁定を仰いだところ、「源空(法然)が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房(親鸞)の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」ということばが返ってきたのでした。
 ここに肝心なことが語られています。もし信心と念仏が往生のための条件とされますと、そこには自ずと高低の差が生まれてきます。そしてより高いものから往生できるという序列ができてくるのは必然です。これは平等の救いを約束する弥陀の精神に反すると親鸞は考えるのです。
 やはり、往生はもちろん、信心も念仏もすべてよきものは弥陀からの賜りものであると言わなければなりません。

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