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2013年10月2日(水) [はじめての『教行信証』(その66)]

 「他力といふは、如来の本願力なり」について考えています。親鸞は「序」において「聞思して遅慮することなかれ」と述べていますが、どうして遅慮する人が出てくるのでしょう。
 他力に対する根本的な疑いがあるのはなぜ?と考えますと、やはり「わたし」の存在に行き当たります。最後の最後は「わたし」でなければ気がすまないということ。「気がすまない」などという非論理的な言い方をしましたが、それも道理で、最後は「わたし」でなければならないというのはもう論理ではなくまさに意志なのです。
 以前「わたし」そのものが「意志」に他ならないと言いました。もう一度ここに戻って考えておこうと思います。
 「わたし」がいまここにいるということは、いまここにひとつの「意志」があるということです。「生きんかな」とする意志です。まず「わたし」がいて、その「わたし」が「生きんかな」という意志をもっているのではありません。「生きんかな」という意志が「わたし」なのです。
 もちろん「生きんかな」という意志だけでは生きていけないのはその通りです。この意志が実現するためには、周りからさまざまな支えがなければなりません。でも、最後の最後はこの「生きんかな」の意志でしょう。これがあってはじめて周りの支えも生きてくるのです。反対に、周りからどれほど一生懸命支えてもらっても、この意志がなければすべては水の泡です。

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