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はじめての『教行信証』(その71) ブログトップ

2013年10月7日(月) [はじめての『教行信証』(その71)]

 次に、本願を「海のごとしとたとふるなり」です。
 経典にも海といういことばはよく出てきますが、親鸞はとりわけ海のたとえをよく使います。よほど海が好きだったのではないでしょうか。ぼくも海のない奈良県で生まれ育ったせいか、今でも広々とした海原を見ると、子どものように「うわー、海だ」と嬉しくなります。
 それは、何と言っても、その限りない広さ、大きさに感動するからですが、もう一つ思うのは、分け隔てのなさと言うのでしょうか、正信偈に言うように「衆水、海に入りて一味なるがごとし」という感じを覚えるからではないでしょうか。どんなに汚れた水であっても受け容れ浄めて、一つの味にしてしまう。その包容性が嬉しくなるのだと思うのです。
 若い頃インドに行き、聖地ベナレス(バラナシ)の見物をしたことがあります。日の出の時刻に多くのヒンドゥー教徒たちがガンジスの河辺に集まってきて、沐浴をするのです。河の水はと言いますと、お世辞にもきれいとは言えません。薄茶色に濁っていますし、少し沖を見ますと様々なものが流れてくる中に犬の死骸なども浮かんでいます。
 それに近くには遺体を荼毘にふす場所があり、その遺灰もガンジスに流されます。そんな水に身体を浸し、眼を洗い、鼻を洗い、口を漱ぐのです。驚いているぼくら観光客に、ガイドはこんな説明をしてくれます、「インド人は、ガンジスは1メートル流れると、どんな不浄なものも浄化してくれると信じているのです」と。大河にしてそうですから、まして大海となりますと「衆水、海に入りて一味」で、本願の海はどんな悪も転じて徳となす力を持っているとなるのです。
 さて行巻の末尾を飾るのは正信念仏偈ですが、これをじっくり味わうとなりますと、またかなりのページを要しますので、別の機会に譲りたいと思います。

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