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はじめての『教行信証』(その72) ブログトップ

2013年10月8日(火) [はじめての『教行信証』(その72)]

                6.信巻(その1)
(1)なぜ信巻を
 これから信巻がはじまりますが、最初にもう一度確認しておきたいのは、行と信とは別ものではないということです。行ともうひとつ別に信があり、それが揃ってはじめて往生できるとするのは迷妄です。したがって行巻ですでに信が説かれているのです。とすれば、どうしてまた信巻が必要なのか。
 信巻には他の巻にはない序がついていますが、ここで親鸞は信について新たに一巻を設けるのは何故かを力を込めて書いています。そこには一種独特の気魄がこもっています。ともあれ全文を読んでみましょう。
 「さて考えてみますと、われわれが信心を得ることは、阿弥陀如来の一切衆生を救いたいという願心から起こっているのです。また阿弥陀如来のそうした願心を、釈迦如来が衆生を哀しみ、巧みな方便を用いて明らかにしてくださったのです。ところが、末の世に生きる僧俗や近頃の諸宗の師たちは、わが心を頼みとし、わが心にこそ浄土があると主張して、浄土の真実の教えを貶めています。また自らの力で禅定を修めたり、あるいは善をなすことにより往生するという思いに囚われて、真実の堅固な信心がないと言わなければなりません(しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心にしづんで、浄土の真証を貶す。定散の自心にまどふて、金剛の真心にくらし)。そこで、わたくし愚禿釈の親鸞が、諸仏の説かれるところを信じて、祖師がたの論釈をひもときたいと思います。広く三部経の教えをこうぶり、特に天親菩薩の『浄土論』の一心について、しばらく問いを発し、それに対する答えを見いだしていこうと思います。まことに仏の恩の深く重きことを心に念じて、人から嘲りのことばを浴びせられても恥じることはありません。浄土を願い、穢土を厭うともがらよ、これらの経釈に取捨を加えることがあろうとも、決して謗ることがあってはなりません(まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言をはじず。浄邦をねがふ徒衆、穢域をいとふ庶類、取捨をくはふといふとも、毀謗を生ずることなかれ)。」


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