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2013年10月10日(木) [はじめての『教行信証』(その74)]

(2)至心信楽の願
 本論に入って、信心は第十八願により与えられると述べます。「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。
 善導はこの願を「もし我成仏せむに、十方の衆生、わが国に生ぜむと願じて、わが名号を称すること下十声に至らむに、わが願力に乗じて、もし生ぜずば正覚をとらじ」と自己流に噛み砕いています。こう読みますと、第十八願はまさに念仏の願となります。
 法然も善導にしたがい、この願を念仏の願と了解しています。ところが親鸞は「至心信楽」の文言に着目して、この願を信心の願とおさえるのです。念仏の願は第十七願で、信心の願は第十八願、ここに親鸞の独自性があります。
 さてそれに続いて親鸞はこう述べます、「無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の信楽まことにうることかたし」と。悟りを得るのが難しいのではなく、信心を得るのが難しいのだというこのことばは、世間の常識に反して意表をつきます。
 普通は悟りを開くのは難しく、信じるのは易しいと考えられています。龍樹もこう言っていました、「世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはちくるしく、水道の乗船はすなはちたのしきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるひは勤行精進のものあり。あるひは信方便の易行をもて、とく阿惟越致(不退転)にいたるものあり」と。
 悟りの道は「陸道の歩行」で難しく、信心の道は「水道の乗船」で易しい、というのは分かりやすい。ところが親鸞は悟りの道は易しく、信心の道は難しいと言うのです。

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