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2013年10月11日(金) [はじめての『教行信証』(その75)]

 しかし「信心の道は難しい」と言うのはここが最初ではありません。序にすでにこうありました、「真実の浄信、億劫にもえがたし。たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ」と。また正信偈には「信楽受持すること、はなはだもてかたし。難のなかの難、これにすぎたるはなし(信楽受持甚以難、難中之難無過斯)」とあります。
 『無量寿経』に「易往而無人(往くに易しくしてしかも人なし)」とあるのがその大元ですが、親鸞はこのことばから真実の信心のあり方を明らかにしようとしているのではないでしょうか。悟りを開くことよりも信心を得ることがなぜ難しいのかを説くことで、ほんものの信心とはどういうものかを示していると思うのです。
 ではなぜ難しいのか。「たまたま浄信をえば」ということばがポイントです。「意図して」ではなく「思いがけず」ということ。
 こちらから「こうしたい」ということでしたら、それがどれほど難しいことでも、思い続けるうちにかなうこともあるでしょう。「空を飛びたい」という空想とも思えたことが今や普通のことになっていますし、「月へ行きたい」というとんでもない夢もすでにかなえてしまいました。
 でも「たまたま」得るしかないことはどうでしょう。こればかりはどうしようもありません。まさに「難のなかの難、これにすぎたるはなし」です。しかし、ある意味では「易のなかの易、これにすぎたるはなし」でもあります。ある時、気がついたら、もうすでに得ているのですから。これはもう易しいとか難しいという尺度とは別次元と言わなければなりません。
 ただこういうことは言えそうです。「たまたま」というところに信心の本質があることに思い至らず、何とかして自分で手に入れようとしている限り、どんなに頑張っても不可ということです。頑張れば頑張るほど遠ざかるばかり。これが「賜りたる信心」、「如来廻向の信心」ということです。

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