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2013年10月13日(日) [はじめての『教行信証』(その77)]

 機の深信とは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と気づくことで、己の内なる煩悩を自覚することです。自分のこころの奥には鬼が棲んでいると気づくことです。それが「曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」となりますと、宿業の自覚へ深まります。自分の中に鬼が棲んでいるだけでなく、はるかな昔から棲み続けているということです。
 宿業とは歴史です。宿業を自覚するということは、自分が宿業の歴史の中にあると感じることです。『教行信証』ではこの宿業があまりはっきりせず、『歎異抄』の中に色濃く出ています。一番有名なのは第13章の「卯毛羊毛(うのけひつじのけ)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべし」というところでしょう。
 こんなふうに宿業の自覚がまず説かれます。その上で法の深信がくる。本願の力によって必ず救われると信じる、その前に「自分のこころの奥底に曠劫よりこのかた鬼が棲みついていて、どんな小さな罪もこの鬼の仕業でないものはない」と信じることが上げられるのは一体どうしてでしょうか。
 機の深信の門を通らなければ法の深信へ出ることができないからです。闇をくぐり抜けなければ、光に出会えない。悲しみの谷を通り抜けなければ喜びの沃野に至ることができないのです。曽我量深氏は、宿業の自覚がないところでは、法蔵菩薩はただの昔ばなしになってしまうと言われます。どういうことでしょう。

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