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2013年10月14日(月) [はじめての『教行信証』(その78)]

 教巻のところで述べましたように、『無量寿経』は釈迦の悟りの内容を説くのではなく、法蔵菩薩の物語が説かれています。法蔵菩薩が一切衆生の罪と悩みを救おうと五劫思惟して四十八願をたてられ、兆載永劫の修行の結果、阿弥陀仏になられたという物語。この物語がただのおとぎばなしではなく、真実として胸に迫ってくるのは、自分自身が罪と悩みの中で「曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して」きたと感じるからです。
 宿業の歴史を感じるのです。
 これまでもよく「割り込み」の話を出しましたが、ここでまたそれを例に考えてみますと、駅のホームで横から割り込みをされると無性に腹が立ちますが、ふと「自分だって人より先に乗りたいと思っている点では同じじゃないか」と気づく。相手を鬼と思うのは、自分の中にも鬼がいるからです。自分も相手も宿業の歴史の大きな流れに巻き込まれ、もう自他の区別がなくなってしまいます。これが宿業の歴史を感じるときです。そして、その歴史の中で法蔵菩薩と出会うのです。
 法蔵菩薩との出会いをこれ以上に瑞々しく表現したものはないと思えるのが、次の親鸞の述懐です。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」。宿業の中で、ふと法蔵菩薩を出会えたと思うとき、そこにいるのはただ「親鸞一人」です。周囲にどんなにたくさんの人がいても、そこには「わたしひとり」しかいません。

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