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2013年10月15日(火) [はじめての『教行信証』(その79)]

 どんなとき法蔵菩薩と出会うか。
 石垣りんに「くらし」という詩があります。
 「食わずには生きてゆけない。/メシを/野菜を/肉を/空気を/光を/水を/親を/きょうだいを/師を/金もこころも/食わずには生きてこれなかった。/ふくれた腹をかかえ/口をぬぐえば/台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨/父のはらわた/四十の日暮れ/私の目にはじめてあふれる獣の涙。」
 「口をぬぐえば 台所に散らばっている にんじんのしっぽ 鳥の骨」のあとに突如「父のはらわた」が出てきてギョッとします。父はもうこの世の人ではないでしょう。自分は亡き父を食って生きてきた、そうしなければ暮らしてこれなかったことに彼女は強烈な負い目を感じています。
 親というのはそういうもので、子は親の残してくれたものを食って生きていくしかないのですが、でもそのことに負い目を感じる。父は死に、自分はその父を食っていることにどうしようもなく負い目を感じる。
 同じ飯盒の飯を食った戦友が死に自分は生き残ったことを、戦後何十年たっても「いいヤツはみんな死んでしまって、オレは生き残った」と反芻している老人。そのことに何の責任もないのに負い目を感じ続けています。
 レヴィナスという哲学者は、他者、どうにも手の届かないところにいる他者のことを「顔」という特異なことばで呼んでいますが、戦争に生き残った老人にはこれほど的確な表現はないでしょう。その老人にとって、死んだ戦友は「顔」に他なりません。楽しそうに笑う顔、死に瀕した苦悶の顔などが老人に「なぜおまえが生き残ったのか」と迫ってくるのです。

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