So-net無料ブログ作成
検索選択
はじめての『教行信証』(その84) ブログトップ

2013年10月20日(日) [はじめての『教行信証』(その84)]

 その時です、東の岸から声がします、「きみただ決定してこの道をたづねてゆけ。かならず死の難なけん、もし住せばかならず死せん」と。また西の岸からも呼ぶ声があります、「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんぢをまもらん。すべて水火の難に堕せんことをおそれざれ」と。東から励ます声は釈迦如来の声です。そして西から招く声は阿弥陀如来の声です。
 これが「なむあみだぶつ」の声です。「帰っておいで」の声です。この声はいつでもどこでもしていたはずなのですが、これまでは何も聞こえなかった。ところが「われいまかへるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた死せん」と思ったとき、はじめて聞こえたのです。
 やはり機の深信の門をくぐってはじめて法の深信に出ることができるのです。念のために言っておきますが、機の深信があるから、五劫思惟の願があるのではありません。五劫思惟の願は、機の深信があろうがなかろうが、そんなことにかかわらずいつでもどこでもなければなりません。「なむあみだぶつ」の声は世界の隅々まで遍満しているはずです。しかし誰かがその声を聞いてくれなければ「なむあみだぶつ」は存在しない。
 曽我量深氏はそれを次のようにうまく言ってくれます。「この招喚の勅命というものは、これは、それをいただくものにおいてはじめて勅命がある。いただかぬものに勅命はない。なるほど勅命があって、そうしてわれわれがそれを頂戴するのだという。そうにちがいない。まず勅命があっていただく。しかしながら、このいただくということなくして勅命はないものである。だからしてすでに勅命といえば、勅命をいただいていることが、むしろ勅命よりさきである」(『歎異抄聴記』)と。

はじめての『教行信証』(その84) ブログトップ