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2013年10月21日(月) [はじめての『教行信証』(その85)]

                7.信巻(その2)
(1)三心一心問答
 信巻の流れをもう一度見ておきますと、標挙の願として第十八願を上げた後、曇鸞・善導・源信の文を引用し、結論として次の文章がきます。
 しかればもしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したまふところにあらざることあることなし。
 「このように行といい、信といい、いずれも阿弥陀如来の穢れなき願心から廻向されたものでないものはありません。」
 行が弥陀からの賜りものであることは行巻で詳しく述べられましたが、信もまた如来から賜ったものであることがここで確認されるのです。しかしこれだけではまだ「如来廻向の信心」という肝心のことが説きつくされたとは思えないということでしょう、この後に「三心一心問答」が展開されます。
 「序」で「ことに一心の華文をひらく。しばらく疑問をいたして、つゐに明証をいだす」と述べられていましたことから見ますと、この「三心一心問答」が信巻の、いや『教行信証』全体のハイライトだと思われますが、それがここで行われるのです。
 「問い。如来は第十八願において至心・信楽・欲生の三心の誓いを立てられました。にもかかわらず天親菩薩はどうして一心と言われるのでしょうか。答え。われら愚かな衆生に分かりやすいようにというお心からでしょう。弥陀如来はたしかに至心・信楽・欲生の三心の誓いを立てられましたが、涅槃に至る本当の因はただ信心だけです。だからこそ、天親菩薩は三心を合わせて一心と言われたのでしょう。」

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