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はじめての『教行信証』(その88) ブログトップ

2013年10月24日(木) [はじめての『教行信証』(その88)]

 かくして、至心・信楽・欲生の三心は信心の一心に収まるのだけれども、われら衆生の心がいかに救いようのないものであるかをはっきりさせるためには、至心と信楽と欲生に分けて、それぞれがわれらにもともと具わるものではなく、如来から廻向されねばならなかったかを明示する必要があったのだということになります。
 われらの側から言えば、機の深信と法の深信という二つの自覚ということになるのですが、それを如来の立場になって推し測ってみると、宿業の中を流転するわれら衆生に至心・信楽・欲生の三心を授けなければならなかったということです。
 結論として次のことばがきます。
 「こうして明らかになりました、至心と信楽と欲生は、ことばこそ違いますが、そのもとはひとつです。どうしてかと言いますと、この三心はいずれも疑いが混じっていません。ですから真実の一心で、これを金剛のように固いまことの心と名づけます。そして金剛のようなまことの心を、真実の信心と名づけます。真実の信心は必ず名号を伴います。名号は必ずしも本願力の信心を伴いません。この故に、天親菩薩ははじめに“われ一心に”と言われたのです。」
 信心は名号を伴うが、名号は必ずしも信心を伴わない、というのは、本願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」で言いますと、信心歓喜があって、それに乃至一念が続くのだということです。「帰っておいで」の声が聞こえて、心に喜びがあふれ、「はい、ただいま」と言うのであって、その逆ではないということです。だから信心歓喜には必ず乃至一念が伴うが、乃至一念があるからといって必ずしも信心歓喜があるとは言えないのです。

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