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はじめての『教行信証』(その97) ブログトップ

2013年11月2日(土) [はじめての『教行信証』(その97)]

 生まれることが〈受け身〉であるということは、まず「わたし」がいて、しかる後に生まれてくるのではなく、まず生まれてきて、しかる後に「わたし」になるということです。「わたし」はその誕生からして遅れをとっているのです。
 サルトルも同じところからスタートして、「われらは気がついたときにはこの世界の中に投げ出されていた」と言います。彼はそこから「われらは根本的に自由だ」と宣言するのです、われらはもともと何ものでもなく、みずから何ものかになるのだと。
 気がついたら「わたし」がいた、ゆえに「わたし」は自由である。ぼくらは若い頃この思想を大歓迎しました。社会変革にはマルクス主義が不可欠だが、残念なことにマルクス主義には主体性がない。それを補ってくれるのがサルトルの実存主義だという何とも安直な発想だったような気がします。
 が、とにかく当時のぼくらは主体性に飢えていたのです。社会変革はもちろん大切だけれども、それが歴史の必然だとすれば、この「わたし」はどうなるのかという不満です。社会変革そのものよりも、それをするのが「わたし」であることが何より大事だった。
 気がついたら「わたし」がいた。ここからサルトルは能動性を引き出すのですが、吉野弘は受動性を諒解するのです。「わたし」は「わたし」の存在に遅れをとっていることを諒解する。サルトルは「わたし」から出発しなければならないと言いますが、吉野弘にとって「わたし」から出発するより前にもうすでにことは始まっているのです。同じところからまったく逆方向のベクトルを引くのは何ともおもしろいと思います。

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