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2013年11月3日(日) [はじめての『教行信証』(その98)]

              8.信巻(その3)
(1)愛欲の広海、名利の大山
 信巻の3回目になります。もう一度大きく流れを追っておきますと、信心の願として第十八願、至心信楽の願を上げた後、真実の信心のありようを明らかにしてくれるものとして、善導の『観経疏』から長い引用がありました。その中でとりわけ大事なのが、二種深信、そしてそれをさらに譬えで示してくれるのが二河白道でした。
 その要点をかいつまんで言いますと、弥陀の本願を信じること(法の深信)は、己が宿業の中にあることを自覚すること(機の深信)が伴うということです。「われいまかへるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた死せん」との自覚があって、はじめて「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんぢをまもらん」の声が聞こえるということ。
 さてその後、信巻のメインとも言うべき「三心一心問答」がきます。十八願の至心、信楽、欲生の三心は、いずれもわれらが自分で調えることができるものではなく、すべて如来の廻向であるということを丁寧に示してくれたのでした。
 そして、如来廻向の信楽のありかたとして「横超」という味のあることばが取り上げられました。生死の海をよこさまに超える。「ふりむけば愛」でした。無始よりこのかた宿業の海を漂ってきたと思う、そのとき、ふとよこを向けばそこはもうそのままで本願の海であることに気づくということです。
 それに続いて「信の一心」を「信楽開発の時刻の極促」というこれまた味わい深いことばで示してくれました。「いま」弥陀の声が聞こえたのですが、しかしそれは実は「もうすでに」聞こえていたという不思議です。こうして横超の金剛心をえたものは「真の仏弟子」と呼ばれ、「弥勒仏にひとしい」と言われます。もう天におどり地におどるほどの喜びがあふれます。

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