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はじめての『教行信証』(その99) ブログトップ

2013年11月4日(月) [はじめての『教行信証』(その99)]

 さて、そのような流れの中で突如次のことばが出てくるのです。
 かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし。
 「悲しいことに、わたし愚禿親鸞は愛欲の煩悩に溺れ、名利の迷路をさまよって、正定聚(往生が約束された仲間)の中に入ったことを喜べません。真実のさとりに近づいたことを楽しめません。恥ずかしいことです。情けないことです。」
 あまりにも唐突です。これまでの流れを突然断ち切るような不自然さを感じさせます。ここには明らかな転調があります。この文の後「それ仏、難治の機(救われがたい衆生)をとくとして」とあり、『涅槃経』から長い引用が続きます。あの阿闍世王の救いについてです。逆悪の罪を犯した阿闍世も救われるのかという重大なテーマについて説かれるのですが、それへのつなぎという役割をもたせようというのでしょうか。
 同じような転調が『歎異抄』にもありました。第9章です。「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらん」と唯円房が親鸞聖人に尋ねたところ、聖人が「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と答えたというくだりです。唯円とすれば、こんなことを聞いて一喝されるのではないかと、こわごわ切り出したと思いますが、意外にも「いや、わたしも同じだよ」という答えが返ってきたというのです。

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