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2013年11月17日(日) [はじめての『教行信証』(その112)]

 そのことを念頭において第十一願を読んでみましょう。「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ」。正定聚と滅度が並列されていて、これでは正定聚が今生か来生かは読み取れません。
 そこで第十一願の成就文(第十一願が成就されたことを述べる文)を見てみますと、「それ衆生ありて、〈かのくにに生まるるものは〉、みなことごとく正定の聚に住す。ゆへはいかん、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚(滅度に至れないもの)、および不定聚(滅度に至れるかどうか定まらないもの)なければなり」とあります。
 これは親鸞の読みで、それまではこう読んでいました、「それ衆生ありて、〈かのくにに生まるれば〉、みなことごとく正定の聚に住す」と。元の漢文は「生彼国者」です。それを「かの国に生まるれば」と読むか、それとも「かの国に生まるるものは」と読むか。
 正定聚と滅度をひとつのものと捉えれば「生まるれば」となるでしょう。かの国に生まれてのちに正定聚となり、滅度に至る、と。しかし、親鸞は断固として「生まるるものは」と読みます。こう読むことで、信楽開発の時刻の極促において、つまり今生に正定聚となり、そして来生において滅度に至るとなります。
 親鸞の読みを正当化するものとして、後半の「かの仏国のうちにはもろもろの邪聚、および不定聚なければなり」を上げることができます。もし正定聚となるのが来生に、かの国に生まれてのちだとしますと、かの国には邪聚および不定聚もいると考えるのが自然ではないでしょうか。

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