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2013年11月18日(月) [はじめての『教行信証』(その113)]

 正定聚を滅度にひきつけて捉えていたがために、今生において正定聚になれるわけがないという思い込みを生んでしまったのではないでしょうか。
 しかし親鸞は信心と念仏の証として、今生において直ちに正定聚になることができると読んだのです。第十八願成就文に「即得往生」とあるのは、その意味にほかならないと。そして今生に正定聚になった以上、来生において滅度に至るのは「おまけ」のようなものです。
 ちょっと横道にそれます。
 『教行信証』を読んでいてつくづく思うのは漢文の不思議さです。外国語(中国語)である漢文を読み下しにして日本語にしてしまうというわれらの先祖が編み出した技術にはほんとうに驚いてしまいます。高校では苦労したなあと思い返しながら、漢文の参考書を押入れから引っ張り出し、その最初のところをペラペラめくってみますと、こんなことが書いてあります。
 「我読書」という漢文を日本語にするためには、レ点をつけることで「読」と「書」をひっくり返し、「読」に「読ム」、「書」に「書ヲ」と送り仮名をつける必要があります。こうして「われ書を読む」と読み下すことができるのですと。それは英語なら「I read a book」を「Iはa bookをreadする」と読み下すようなものだともありました。
 なるほど英語をもとに日本文を作ろうとしたら、「I」、「read」、「a book」などを外来語としてそのまま使い、それに「は」とか「を」とか「する」といった仮名をつけて語順を変えればいいわけです。そういえば「Iはyouにこれをpresentするよ」などと言うのを売りしている芸人がいましたが、奈良・平安期の日本人は当時の中国語をその文字(漢字)はそのまま使い、語順を変えながら日本語読みしていったのです。すごい芸当だと思います。

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