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2013年11月19日(火) [はじめての『教行信証』(その114)]

 最近読んだ本(大澤真幸著『社会は絶えず夢を見ている』)にこんなことが書いてありました(それ自体ある本からの引用ですが)。
 福沢諭吉の友人が、ある外国語の翻訳について諭吉に相談したというのです、「これが『あてはめる』という意味だとはわかるのだが、よい訳語がない、君ならどうする」と。諭吉は大いに笑って「君は訳語が見つからないと言いながら、今、適当な語を使って訳したではないか。なぜわざわざ『四角張った文字』で訳さないといけないのか」と答えたそうです。
 「四角張った文字」とは言うまでもなく漢字のことですが、ここには奈良・平安期の日本人が中国語を日本語に翻訳するとき、和語に変換することなく、漢語のまま使った名残りが現われています。
 この頃は欧米語を漢語に置き換えることもなく、そのままカタカナで表記することが多くなりました。コンピューター関係の文などはもうカタカナ語の海です。それに当たることばがない場合は仕方がないとしても、立派な和語があっても、わざわざカタカナ語にする傾向があります。
 大澤氏の言うように、日本語は外来語に対して、どれだけ時間が経っても「おまえは外来語だぞ」と分かるようにはっきりした印をつけるのです。これはしかしどうしてでしょう。諭吉のエピソードにしても、この頃のカタカナ語の氾濫にしても、和語を避けるのは何故でしょう。
 外来であること自体に価値を認めようとしているからとしか考えられません。舶来であることに値打ちがあるとする感性。

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