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はじめての『教行信証』(その115) ブログトップ

2013年11月20日(水) [はじめての『教行信証』(その115)]

 舶来であることに値打ちがあると思うからこそ、いつまで経っても外来であることがはっきり分かるように漢語やカタカナ語として印をつけるのでしょう。「きまり」という和語よりも「規則」という漢語、あるいは「ルール」というカタカナ語の方が値打ちがある、カッコいいという感覚です。
 仏教の経典のことを考えますと、それがよく分かります。最近になってようやく経典の口語訳が出てくるようになりましたが、お経というものは漢文をそのままに読むものであって、せいぜい読み下しをするとしても、口語に訳すなどということは考えられませんでした。
 実際、口語訳されたお経を読んでみますと、何か頼りないといいますか、ありがたみが感じられません。『聖書』でも同じことが言えます。文語訳は格調が高く、口語訳となりますとどうにもシャキっとしない。
 さて親鸞が『無量寿経』の「生彼国者」を「かの国に生まるれば」と読まずに、「かの国に生まるるものは」と読んだという話に戻ります。
 「かの国に生まるれば」は文字に忠実な読み方で、正統派の読み方でしょう。それに対して親鸞の読みは、文字を読んでいるというよりも、文字の背後から聞こえてくる声を聞き取ろうとしているように感じられます。
 ここには大事なことが隠されているように思います。

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