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2013年11月21日(木) [はじめての『教行信証』(その116)]

 日本人は長い間、仏教という外来思想を、外来であるということで崇め奉ってきました。ですから経典は漢文そのままで読むのが一番よく、日本語に読み下すとしても、その文字にできるだけ忠実に読まなければなりません。勝手に解釈してはいけないのです。
 イスラームの聖典『クルアーン』は翻訳されたら、もはや『クルアーン』でなくなります。それはアラビア語で書かれたものでなければならない。アラビア語が特別に神聖な言葉だからではありません。ただムハンマドが神から聞いた言葉がたまたまアラビア語であったという理由からです。それを他の言語に訳しますと、そこにおのずから訳者の解釈が入ってしまうからです。
 しかし、ここには根本的なアポリアがあります。たとえ他の言語に訳さないとしても、『クルアーン』に書かれたことばを日々の生活の中に生かそうとしますと、そこに必ず解釈が必要になってきます。『クルアーン』のことばを、それぞれの具体的な場面に適用しようとしますと、この場合はこうだが、あの場合はこうなるというように、ことばの意味を解釈しなければならないのです。
 こう考えてきますと、ことばは、それが書かれたもの(文字)であっても、それが自分にとってどのような意味をもつかを汲み取ろうとしますと、そのうしろから聞こえてくる声を聞き取るしかないのではないでしょうか。親鸞も「生彼国者」という文字のうしろから「かの国に生まるるものは」という声を聞いているのです。

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